正直読書

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何度でも読みたい「きりこ」の物語「きりこについて」

きりこについて (角川文庫)

きりこについて (角川文庫)

きりこは、ぶすである。

この堂々たる書きぶり。
吾輩は猫である」「メロスは激怒した」「It was a dark and stromy night…」に少しも遅れを取らない名文。
しかも、「ぶす」は太字である。


「ぶす」は、呪文のような言葉で、この言葉を貰って良い気分になる女子はいない。
どんなに自分を可愛いと思っていようとも、周りからチヤホヤされても、ひとたびこの言葉を掛けられようものなら、白いTシャツに撥ねてしまった墨汁のように、ずっと消えないものだ。


だから、この言葉を(女子に関わらず)人にぶつけてはいけないし、「ぶす」と思われる人には同情する、優しくする、腫れ物扱いする、などという不文律がこの世にはある。


きりこは誰からみても、「ぶす」だった。
彼女の容姿にいちはやく気付いた周りの大人は、きりこに優しい言葉を掛け続ける。
「あら、健康的な感じやねー。」「頭ががっしりしてるから、将来賢くなりはるんちゃう?」「この子と、仲良くしてあげなきゃだめよ!」


きりこ以外の子どもたちは、不思議な言動をする大人と「ぶす」なきりこを見比べながら、成長していくのであった。


大人がきりこに優しく接するのは、同情心や罪悪感からくるもので、それらは紛れもなく、「きりこはぶすだ」という認識から発生している。
きりこに初めて「ぶす」と言ったこうた君や、「おまんじゅう」と評したちせちゃんよりも、却って大人のほうが残酷で、「偽善」という言葉が似合わないでもない。


しかし、西加奈子はそんな大人たちを批判しない。
こういう場合の難しさをよく心得ているからだろう。
自分がきりこのクラスメイトの親だったとして、優しく接する以外にできることがあるだろうか。


大人は、「ぶす」だということをハンディキャップのように考えている。
マイナスを少しでもゼロに近づけてあげようと、無意識に行動しているのだ。
これも紛れもない、優しさだ。


しかし、西加奈子は容赦しない。
きりこの容姿を面白おかしく表現しているし、そもそも「ぶす」を太字にしている。
きりこに同情しないし、罪悪感も抱かない。


きりこは猫と話すことができる。
でも、これはきりこが「ぶす」だから、という訳ではない。
ラムセス2世と出会ったのも、「ぶす」だからではない。


きりこがきりこらしく生きていたから、猫たちが側にいたのだし、部屋から出ることができたのだ。
周りの大人が心配する必要は、なかったのである。


物語の終盤、きりこは気付く。
この「気づき」があったのも、西加奈子がきりこに公平に接したからだ。
「ぶすな女の子が世の中の不条理に立ち向かう」物語では、決してたどり着けない「気づき」。
この物語のタイトルが、「きりこについて」である所以。

「今まで、うちが経験してきたうちの人生すべてで、うち、なんやな!」

この言葉、そしてこの言葉に至る場面すべてを、額に入れて飾っておきたい。
そんな気持ちになる、素晴らしい一文だ。


きりこの住むマンションには、彼女と同年代の子どもたちがいた。
ちせちゃんは将来AV女優になる。ゆうだい君は勉強はさっぱりだが美的センスの優れた「ゲイ」となり、ともひこ君の母親は人に言えない過去があって、新興宗教にはまっている。


彼らに同情したり、西加奈子による、たちの悪いギャグなのだと思っていた。
でも、その思考自体が「おせっかい」なのであり、彼らは無事にハッピーエンドを迎えることになるので心配しなくてよい。



人の外面や内面を、自分のスケールで測ってはいけない。
でもそんなことは難しいし、みんなわかりきっているし、文章にしても面白くない。


「きりこについて」は、教訓めいたものでは決してないけれど、いろいろなことを思い出させてくれるし、何より面白い。
読んでよかった。
そしてもし私がラブレターを書くことがあれば、「〇〇君はすきなひとがいますか。わたしですか。」の一文を是非入れたい。