正直読書

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優しくて美しくて悲しい 「猫を抱いて象と泳ぐ」

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

だいたいこういう話

・見た目にコンプレックスを抱く少年がチェスに出会う。
・師の導きにより才能が開花した少年は「盤下の詩人」と呼ばれ、数多くの対局を行う。
・チェスは相手の人間性や人生観を写す鏡のよう。少年と人々の交流を描いた物語。

何かに一生懸命になるということ

ピアノは心を写す鏡なの。
怒っているときはピアノの音も怒っているし、泣きたいときは悲しい音がするのよ。

習い事としてピアノを始めた小学生の頃、初めてピアノを触るときに言われた言葉。


チェスとピアノは違う。

そもそもピアノは2者の間で勝敗を決めるものではないし、チェスも音楽を奏ではしないけれど、
その人の感情や物事へ向き合う姿勢が表れるという点では似ている。

チェスやピアノだけではなくて、他の芸術活動やスポーツ、学問にもこういうことはあるんだろうなとおぼろげに思う。

何かに一生懸命に向き合って、初めて得られる感触。片手間では辿り着けない境地。
技術的に上手い下手ではなくて、「一生懸命」という軸にいるかどうかが重要なのだと思う。


チェスが難しいのは、自分だけでなく、相手も一生懸命でなければならないところだと感じた。
どんな指し手にも真正面から向き合う少年に対して、相手の出方はさまざま。
優れた才能を持っているのに、投げやりで乱暴な行いをする酔っ払いもいれば、ルールを忘れても整然と駒を動かすおばあちゃんもいる。

そうした相手に寄り添い、丁寧に駒を進める少年は、純然たる「優しさ」に満ちていた。
その優しさが心を突き動かすのだろう。

成長しないリトル・アリョーヒン

主人公を「少年」と呼んでいたが、一応彼には「リトル・アリョーヒン」という呼び名がある。
また物語を通して歳を取るので、少年と呼ぶのは正確ではないかもしれない。
私が彼のことを「少年」と呼ぶのは、彼がまったく成長しないからだ。


実は、少年はからくり人形の中に入ってチェスを指す。
人形の内部は非常に狭い。
またトラウマにより、「大きくなることは悪いこと」という刷り込みが成立しているので、物理的に大きくならないのだ。
小さく丸まった姿勢のままチェスばかりをやってきたから、他のことをする筋力もない。


さらに驚くべきことに、少年の内面もほとんど成長しない。

幼少期から非常に思慮深く、繊細な性格なので、すでに完成しているという見方もできる。
しかし、幼少期のトラウマが拭えず、恐れから取った行動が稚拙なのが気になる。

極め付きは、愛する女の子を自分のチェスによって傷付けてしまったとき。
あろうことか、彼女を置いていなくなってしまう。しかも何も告げずに。


少年は成長しない。
幼い頃、いじめっ子にいじめられた時そのままの容姿と中身で生きることを選んだのだ。

少年は弱いまま。優しいまま。
祖父母と弟、そしてミイラという庇護者がいたから弱いままでいられたのだ。


弟と比較すると分かりやすい。
生意気で無邪気な子供がいつの間にか大きくなり、祖父の仕事を引き継いでいた。
物語の中で確実に月日が流れているのに、少年からそれを感じることは出来ない。
なぜなら彼は成長しないから。

「リトル・アリョーヒン」という名は、少年のままの体と内面をそのまま表した呼び名だ。


少年の行動は、しばしば成長することを拒んでいるようにも見える。
成長と引き換えに、チェスをすることの喜びを選んだのだろうか。


成長という健全さが失われても、不思議と物語は静かな美しさをたたえている。

弱いことそのものが美しいわけでもないし、チェスの才能に結びつくわけでもない。

チェスへの情熱、屋上から降りられなくなった象、壁に埋まったミイラ、回送バスに漂う甘い香り…
少年が弱いままである故に感じた孤独がすべて合わさって、物語に光が差し込む。

不思議な調合としか言いようがないが、この不安定さが心地よい。


「猫を抱いて象と泳ぐ」とは、なんとアンバランスな題名だろうかと思った。
しかし、読んでみたらそうとしか名付けられない優しくて美しい世界があった。
まるで小さな箱庭を見ているような。小川のせせらぎを聴いているかのような。

温かいのに悲しい。今ピアノを弾いたらどんな音が鳴るだろうか。