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異常な患者になぜか共感してしまう?『イン・ザ・プール』

イン・ザ・プール (文春文庫)

イン・ザ・プール (文春文庫)

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「いらっしゃーい」。伊良部総合病院地下にある神経科を訪ねた患者たちは、甲高い声に迎えられる。色白で太ったその精神科医の名は伊良部一郎。そしてそこで待ち受ける前代未聞の体験。プール依存症、陰茎強直症、妄想癖…訪れる人々も変だが、治療する医者のほうがもっと変。こいつは利口か、馬鹿か?名医か、ヤブ医者か。(「BOOK」データベースより)<<


いや〜、面白かった。

表題作「イン・ザ・プール」の他に「勃ちっ放し」「コンパニオン」「フレンド」「いてもたっても」の全5作の短編集が収録されています。

どれも面白いです。


一番良かったのはイン・ザ・プールですね。

水泳にハマり、プール通いがやめられなくなってしまった患者の話ですが、とにかく水泳シーンが楽しそうでしょうがない。

水に足を入れる。(中略)
胸までつかる。快感だった。軽く潜ってみる。もっと快感だった。
(中略)
泳ぎながら自然と笑みがこぼれてきた。水がやたらと心地よい。途中、仰向けになると、天井の照明灯がきらきらと輝いていた。
くそお。なんでこんなに楽しいことにいままで気づかなかったのだ。


ね、すごく楽しそうでしょう。

十数年ぶりのプールで水泳の楽しさに目覚めてしまうシーンです。

この体験をきっかけに、主人公は仕事や休息の時間を犠牲にするほど、水泳に「病みつき」になってしまいました。

でも、こんなに高揚した気分を味わってしまったら、のめり込むのも分かるような…。

というように、明らかに異常な患者たちに何となく共感できてしまうんですよね。


これについて少し語っていきたいと思います。

・・・・・・・・・

主人公の和雄が伊良部総合病院地下にある精神科を訪ねたきっかけは、下痢や腎臓のあたりの不具合などの体調不良からでした。

最初から水泳に執着していたわけではないんですよね。

伊良部の「一日一回は運動しないとね」という適当な言葉を受けて漠然と思い立ったのが水泳だったということです。


珍しくも何ともない症状で来院したはずが、伊良部の診察を受けるとなぜか「沼」にハマってしまう。

下り坂を転がり落ちるように、どんどん和雄が異常者になっていくわけですが、その過程がなぜか心地よい。

そしてなぜか伊良部も水泳を始めていて、和雄の水泳熱をヒートアップさせてしまうところも笑いどころですよね。


異常者って一般の読者とはかけ離れた存在として登場することが多いですが、和雄や他の患者もそこまで「トンデモ」な感じはしないんですよね。

ここがこの小説のうまいところです。


伊良部や看護師のマユミが明白な「変態」として描かれているため、
どんなに異常な症状を持っていても、患者が常識的な人物に見える

というのが作者の狙ったところだったのではないかと思います。


これが成立するとどうなるのかというと、

どんどん「沼」にハマっていく患者と一緒に高揚感を味わったり不安になったりできるのです。

その没入感が最も高かったのが「イン・ザ・プールでした。


「勃ちっ放し」は他人事として笑える話でしたが、男性はどうなんですかね。「自分もこうなったらどうしよう」と考えてしまう方もいるのではないでしょうか。


不定愁訴の患者に「繁華街でやくざを闇討ち」してみては、と勧めるような神経科医にはなかなか感情移入できませんよね。

伊良部やマユミよりも自分に親しい人物は自ずと和雄となり、彼の悩みも受け入れやすいような仕組みがつくられているのです。


ここまで穿った見方をしている人はあまりいないと思いますが、自分なりにこの小説がなぜ面白いのか考えてみました。

クオリティの高いエンターテイメント小説ですので、読書の習慣があまりないような方にもおすすめしたいですね。