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未知なるものとの出会いを描く「妊娠カレンダー」

妊娠カレンダー (文春文庫)

妊娠カレンダー (文春文庫)

「妊娠カレンダー」「ドミトリイ」「夕暮れの給食室と雨のプール」の3編が収録されている。
どれも読みやすく、面白い。

ざっくりとしたあらすじ

「妊娠カレンダー」
妊娠した姉を観察する大学生の妹の日記。
姉の夫と共に一つ屋根の下で姉を見守るが、肝心の夫は頼りなく、いつもおどおどしている。
つわり等の影響から、もともと不安定なところがあった姉は変容していく。


「ドミトリイ」
夫がスウェーデンへ赴任し、呼び寄せてくれるのを日本で待っているわたし。
いとこが大学に進学するため、学生時代に使っていた下宿先を紹介することに。
寮を管理する「先生」は、現在は寮生が非常に少なく、以前とは様子が変わってしまったことを打ち明けるも、いとこを受け入れる。


「夕暮れの給食室と雨のプール」
司法試験に十年落ち続けるバツイチの男と結婚したわたしは、古い一軒家を購入する。
ある雨の日、三十代の男と3歳くらいの男の子が訪ねてくる。宗教勧誘のようだった。
その後犬の散歩をしていると、宗教勧誘に来た2人が小学校の裏門に立っているところを目撃する。

弱々しい男たち

3編に共通しているのは、語りが女性ということ、また彼女から見た男性がみな弱々しいことである。

「妊娠カレンダー」の姉の夫は、姉の我儘を型通りに受け止めるつまらない男。

「ドミトリイ」の先生は、両足と片手がなく、次第に体が衰弱していく様子が描かれる。
何を考えているのか分からないという点で、3編の中で最も不気味な存在である。
ちなみにいとこも男子学生である。彼もどちらかと言えば物腰柔らかで線の細い方だろう。

「夕暮れの給食室と雨のプール」の男性は、宗教勧誘を熱心にするでもなく、小学校の給食室を見ては子供の頃のトラウマを反芻している。


姉の夫も、先生も、宗教勧誘の男性も、確固たる意思というものが全く描かれない。
色んな流れに身を任せて、気がついたらここにいた、というような佇まいである。
先生を除けば、彼らには家庭があるわけで、それを構築するまでに、意思決定をすることが何度かあっただろうと推測するが、
そうした経緯を感じられないし、人生における経験値というものが全く見えない。

強く見つめたら消えてしまいそうな存在。
男性をここまでジメジメっと描いた小説は、ちょっと珍しい。

「ドミトリイ」が不気味すぎる

3編の中で一番インパクトがあった「ドミトリイ」。ちなみに3編の印象を一言で表すと、こんな感じ。

「妊娠カレンダー」:ちょっと不気味
「ドミトリイ」:怖い
「夕暮れの給食室と雨のプール」:幻想的


「ドミトリイ」の何がそんなに不気味なのかと言うと、
「見知った人が何を考えているか分からなくなった瞬間」
「以前暮らしていた場所が急に不気味なところに思えてくる瞬間」
をじわじわじわーっと表現しているからなのかなと。


寮の管理をする先生とわたしは、特別親しい関係にあった訳ではない。
わたしが下宿していた頃は、電球の交換や水道管の故障を伝えに行く程度であった。
わたしが大人になってから、いとこの入寮のために電話でやり取りをし、いとこを訪ねるついでに先生との交流を深めていく。


先生への違和感は、少しずつ発現する。
初めて先生が登場した際、先生が義足でお茶をいれる様子を「厳かな儀式」と表現する。
いとこが「寮がとても気に入った」と発言したこともあり、好意的に描かれていることが分かる。最初は良いのよ。最初は。

その後わたしがいとこを訪ねるも、なぜかいつも会うことができない。
その時は先生と共にデザートを食べるのだが、先生の唯一の興味は、「器官としての身体」を見ることだと打ち明けられる。

上腕二頭筋の左右のバランスが崩れている、薬指の第二関節に突き刺したあとが残っている、くるぶしの形がいびつだ、すぐにそういう特徴をつかんでしまうのです。

先生のこの発言で、「あれ、ちょっとおかしいぞ?」と思い始める。
解剖学の教科書を開いてるかのような表現が、先生から急に出てくることに歪さを感じる。
なんとなく私はハンニバル・レクターを思い出した。


その後も先生は、「器官としての身体」に熱弁を振るう。

わたしはコーヒーを飲み、(中略)美しい左指を眺めなければなりません。忙しく、幸せでした。(中略)何度も品種改良され、温室で大切に育てられた植物のようでした。指のいろいろな部分に表情があるのです。薬指の爪が微笑んだり、親指の関節が目を伏せたり、分ってもらえるでしょうか。

分かりません。
「もの静かな性格」の先生の体調が悪化していることと、美しい左指の持ち主の行方を踏まえると、この発言の不気味さが迫ってくる。


そして、場所への不信感について。
先生の部屋に入ったわたしは、不思議なものを発見する。
その存在は、日を経ることにどんどん存在感を増し、最後には無視できないほどになっていた。
どんどん大きくなる「それ」に圧迫感を感じる。


先生の部屋はいつの間にか蜜蜂が飛んでいて、常に羽音が鳴っている状態だった。
蜜蜂の、一定でないあの音を想像すると、何となく不安に駆られる。
ホアキン・フェニックスの「ジョーカー」のチェロの音が観客の居心地を悪くするように。
また、「…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。」でおなじみの「ドグラ・マグラ」をも連想させる。
ドグラ・マグラ」のこの音も「蜜蜂の唸るような音」と表現されている。


いくつもの違和感がすべて先生の「ドミトリイ」に集約し、突然終わる。不気味な後味だった。
お化けとか、怪奇現象ではないが、ここまで他人を空恐ろしく描けるのは文才なのだろう。



3編に共通しているのは、未知なるものとの出会いを描いているところだと思う。
それがUFOとか、お化けとか、本当に未知なるものという訳ではなくて、
日常に溢れているものだったり、元々知っているのに知らない存在に見えてきたりというところがユニークだ。