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伊藤計劃「虐殺器官」についてざっと語る

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

本書の経歴を紹介しましょう。

日本の長編SF小説伊藤計劃のデビュー作品である。2006年、第7回小松左京賞最終候補。2007年発表。「ベストSF2007」国内篇第1位。「ゼロ年代SFベスト」国内篇第1位。2010年にハヤカワ文庫から文庫版が刊行された。

次に、著者の伊藤計劃を紹介します。

Webディレクターの傍ら執筆した『虐殺器官』が、2006年第7回小松左京賞最終候補となり(中略)作家デビュー。
同作は『SFが読みたい! 2008年版』1位、月刊プレイボーイミステリー大賞1位、日本SF作家クラブ主催の第28回日本SF大賞候補となる。
全く同じ経緯でデビューした円城塔[注 1]と共に、期待の新人として脚光を浴びるも、2009年3月、肺癌のため死去。
2009年12月6日、遺作となった『ハーモニー』で第30回日本SF大賞を受賞した。
「特別賞」枠を除き、故人が同賞を受賞するのは初めてである[3]。
2010年に同作の英訳版が出版され、アメリカでペーパーバック発刊されたSF小説を対象とした賞であるフィリップ・K・ディック賞の特別賞を受賞した[4]。


ウィキペディアからの引用ですが、「虐殺器官」ならびに伊藤計劃が非凡なことは伝わったでしょうか。

伊藤計劃の著書は少なく、「もっとこの人の文章を読みたい」と何度考えたことか…。


今回は伊藤計劃の第一作目「虐殺器官」について好き勝手語ります。

だいたいこんな話

9・11以降、先進国は徹底的な情報管理体制を敷き、テロは一掃された。
・一方、後進国では内戦や大規模虐殺が急増していた。
後進国で起こる虐殺には、常に謎の男の存在があった。
・米軍大尉クラヴィス・シェパードは、虐殺の主犯の暗殺計画を遂行しながら、謎の男を追う。
※物語は全編クラヴィスの一人称。時代設定はそう遠くない未来。

虐殺器官」は何を描いたのか

後進国に赴き、虐殺の首謀者の暗殺を次々と遂行するクラヴィス

彼の任務の様子は事細かに描写され、暴力的なシーンの多さに驚きます。

一見すると、本書はグロ表現多めなミリタリー小説ですが、読み進めるうちに、本書の別の顔が見えてくるかと思います。


それは、ラヴィスの繊細な内面描写です。

暴力的な文章の中に生きる彼は、想像以上に思索的な人間だったのです。


ラヴィスの苦悩を敢えて具体的に挙げるとすれば、(無粋かもしれないですが)

最終的に残った2つの問いに対して、答えを見出だせずにいたことではないでしょうか。

・自国の快適な生活を維持するために、遠い国で多くの犠牲が払われていることを知ってしまったら?
・背負いきれないほどの多くの罪と向き合うには?


この問いはクラヴィス以外の登場人物にも等しく与えられ、彼らはその答えを探し、行動します。

最後にクラヴィスが答えを出したところで、本書は終わりました。


2つの問いを通じて、クラヴィスは「この世界でどう生きるか」という問いへの答えを見つけたように思います。

虐殺器官」は、伊藤計劃が「生死」に対する解釈を1つ定めた、そういう本なのかなあと。

「ハーモニー」が自我や魂といった人間のソフト面を描いているとしたら、本書は肉体や生死そのもの=ハード面を題材にしているような気がします。

「ご都合主義」への徹底した批判

ラヴィスの思索は、「見たくないものは見ないし、想像すらしない」という一般的な態度に相対するものです。

「見たくないものは見ない」というのは、戦場へ送られる兵士が「マスキング処置」を受けるのとよく似ています。

マスキングとは、脳のある部分に何かしらの処置をすることで、人を殺めることの罪悪感や躊躇を無くし、戦場において兵士自身の力が発揮しやすくなる状態にすることだそうです。

また、痛みを認識しても、実際に痛いと感じないような処置をされています。

「ご都合主義」というヤツですね。


殺人に伴う罪の意識を感じない。傷を負っても痛みを感じない。

ラヴィスは、人間として当然感じるべきあらゆる感覚が無くなっていることに疑問を呈していました。

子供に銃口を向けることへの躊躇。酷い遺体を見たときに感じる嫌悪感。戦場における本能的な恐れ。

「手応え」のない「ご都合主義」への疑念が積み重なって、最終的な「問い」へと繋がるんですね。


個人情報が完璧に管理された世界。そして兵士へのマスキング。

機能さえしていれば、そしてそれに疑問を持たなければ、何一つ不自由のない世界。

「ご都合主義」は、見方によっては箱庭のようですね。

そして悪いことに、その箱庭の外では大虐殺が常に起きているのです。


本書は都合の悪いことは見ない・感じないという態度=「ご都合主義」に対する批判や嫌悪を露わにしています。

この構造は「ハーモニー」でさらに深まっているように思います。

暴力的な表現について

本書は非常に良作なのだけど、リアルの知人には紹介しにくい。

それは虐殺シーンがあまりにも酷いからです。

どれだけ酷いかというと、多少グロ耐性がある(と思っていた)私が1ページ目を読んだだけで、1度断念してしまったほど。

そして数年間触れられなかった…。

あまりに残酷なので引用できないし、受け入れられない人も多いだろうな。


某評価サイトを見ていたところ、案の定「グロすぎる」という感想が一定数ありました。


「グロい」というのには私も同感ですが、虐殺器官」にはある程度の暴力的な表現が必要だったと思います。

なぜなら、虐殺シーンが酷ければ酷いほどクラヴィスの抱える悩みが明確になるからです。


凄惨な事態を引き起こしておいて、何も感じないことへの恐怖。

無残な死体とマスキング処理が生み出す無敵状態との対比。

その異常さが、クラヴィスを追い詰めていったのでしょうね。


ということで、ざっと語ってみましたが、伊藤計劃の本は読むたびに新しい発見があります。

それだけ作り込まれた小説だということです。


なので、また読み直したらまた違う感想文を書くだろうし、人によって感じることも違うでしょうな。

もう一度読み返したいけど、せっかくまとめた感想文が無になりそうなので、今回はここまで!