正直読書

本のこと、日常のこと。司書の勉強中。

2021/6/4日記「名字が変わるということ」

先日、同居するパートナーからの申し入れを受け入れ、「入籍」に向けて動き出すことになった。


プロポーズといっても夜景とか観覧車なんてものはなく、自宅のニトリのソファに腰掛け、YouTubeを見ていたその時だった。


ロマンチックのかけらもないが、今後もずっと一緒にいるのだという漠然とした予感を、形のあるものにしていくような、そんな不思議な感覚である。


入籍にあたって、自分の姓について、そして姓が変わることについて少し考えてみた。


私は特に由緒ある家の出ではないし、こだわりもないので夫となる人の姓を使っていく予定だ。


かつて女の子だった方は頷いてくれると思うが、好きな人の名字と自分の名前をくっつけて、ノートの隅に書いたことがある。


どんな名字だったとしても、本来の自分のフルネームよりも輝いて見えたし、名字が変わることに対して劇的なロマンチシズムを感じたものだ。


実際に名字が変わることになった今、感じているのは少しの寂しさである。
家族から離脱して、新たな家庭を築いていくのだから、当たり前かもしれない。
しかし、それだけではない。


実は、私の姓は少しカッコいい。


少し珍しい名字で、画数は多いが、丁寧に書くとなんだか由緒や品やら格式やら、本来私があまり持っていないものまで演出してくれるような気がする。


それに本当に偶々、私が働く自治体ではこの名字の一族が大きなお屋敷を沢山構えている。


私の一家とは全く縁のない方々だが、クレーム対応なんかの際には、名乗った瞬間に「あっ、あそこのお家の方かぁ〜!なんだか親近感湧くねェ〜!」と何だかんだで丸く収まることが多い。(一族ではないことは毎回伝えるが、それでもポジティブな印象らしい。)


この名字は(ちょっとカッコいいという)微かな自尊心を満たしながら、業務でもそこそこ役に立つという、お得なお名前なのだ。


夫となる人の姓は、カッコいいか悪いかで言えば、良い寄りの普通と言ったところか。(失礼)


カッコいいか悪いか、実務的か否か、という面だけで言えば、私の元々の姓の方が断然に良い。
その意味では、名字が変わってしまうのは少し惜しい。



親の姓から抜け出して、新たな名字で生きていくというのは、なんだか親の庇護から旅立つというか、どことなく縁が薄くなってしまうような気がしてしまう。


結婚後も変わらず仕事は続けるが、姓が変わることで、夫や夫の家族の庇護下に置かれるような気もしないでもない。


それに、26年間使ってきた名前の半分が変わってしまうのは、大袈裟に言えばアイデンティティの変質にも関わってきそうな気がする。


(ここまで「気がする」ばかりである。)


そういうところを考えていくと、夫婦別姓という1つの可能性に突き当たるのかもしれない。


しかし、私もどこかに少女の心を持っているようだ。
名字が変わるイベントに対して、多少の憧れをまだ抱いている。


なので、変更後のフルネームを書く練習をしたり、新しい印鑑を見たりと、意外にも準備万端である。


26年間使った今の名字を使うのもあと数ヶ月。
手書きの際には、できるだけ丁寧に書こうと心がけている。

何度でも読みたい「きりこ」の物語「きりこについて」

きりこについて (角川文庫)

きりこについて (角川文庫)

きりこは、ぶすである。

この堂々たる書きぶり。
吾輩は猫である」「メロスは激怒した」「It was a dark and stromy night…」に少しも遅れを取らない名文。
しかも、「ぶす」は太字である。


「ぶす」は、呪文のような言葉で、この言葉を貰って良い気分になる女子はいない。
どんなに自分を可愛いと思っていようとも、周りからチヤホヤされても、ひとたびこの言葉を掛けられようものなら、白いTシャツに撥ねてしまった墨汁のように、ずっと消えないものだ。


だから、この言葉を(女子に関わらず)人にぶつけてはいけないし、「ぶす」と思われる人には同情する、優しくする、腫れ物扱いする、などという不文律がこの世にはある。


きりこは誰からみても、「ぶす」だった。
彼女の容姿にいちはやく気付いた周りの大人は、きりこに優しい言葉を掛け続ける。
「あら、健康的な感じやねー。」「頭ががっしりしてるから、将来賢くなりはるんちゃう?」「この子と、仲良くしてあげなきゃだめよ!」


きりこ以外の子どもたちは、不思議な言動をする大人と「ぶす」なきりこを見比べながら、成長していくのであった。


大人がきりこに優しく接するのは、同情心や罪悪感からくるもので、それらは紛れもなく、「きりこはぶすだ」という認識から発生している。
きりこに初めて「ぶす」と言ったこうた君や、「おまんじゅう」と評したちせちゃんよりも、却って大人のほうが残酷で、「偽善」という言葉が似合わないでもない。


しかし、西加奈子はそんな大人たちを批判しない。
こういう場合の難しさをよく心得ているからだろう。
自分がきりこのクラスメイトの親だったとして、優しく接する以外にできることがあるだろうか。


大人は、「ぶす」だということをハンディキャップのように考えている。
マイナスを少しでもゼロに近づけてあげようと、無意識に行動しているのだ。
これも紛れもない、優しさだ。


しかし、西加奈子は容赦しない。
きりこの容姿を面白おかしく表現しているし、そもそも「ぶす」を太字にしている。
きりこに同情しないし、罪悪感も抱かない。


きりこは猫と話すことができる。
でも、これはきりこが「ぶす」だから、という訳ではない。
ラムセス2世と出会ったのも、「ぶす」だからではない。


きりこがきりこらしく生きていたから、猫たちが側にいたのだし、部屋から出ることができたのだ。
周りの大人が心配する必要は、なかったのである。


物語の終盤、きりこは気付く。
この「気づき」があったのも、西加奈子がきりこに公平に接したからだ。
「ぶすな女の子が世の中の不条理に立ち向かう」物語では、決してたどり着けない「気づき」。
この物語のタイトルが、「きりこについて」である所以。

「今まで、うちが経験してきたうちの人生すべてで、うち、なんやな!」

この言葉、そしてこの言葉に至る場面すべてを、額に入れて飾っておきたい。
そんな気持ちになる、素晴らしい一文だ。


きりこの住むマンションには、彼女と同年代の子どもたちがいた。
ちせちゃんは将来AV女優になる。ゆうだい君は勉強はさっぱりだが美的センスの優れた「ゲイ」となり、ともひこ君の母親は人に言えない過去があって、新興宗教にはまっている。


彼らに同情したり、西加奈子による、たちの悪いギャグなのだと思っていた。
でも、その思考自体が「おせっかい」なのであり、彼らは無事にハッピーエンドを迎えることになるので心配しなくてよい。



人の外面や内面を、自分のスケールで測ってはいけない。
でもそんなことは難しいし、みんなわかりきっているし、文章にしても面白くない。


「きりこについて」は、教訓めいたものでは決してないけれど、いろいろなことを思い出させてくれるし、何より面白い。
読んでよかった。
そしてもし私がラブレターを書くことがあれば、「〇〇君はすきなひとがいますか。わたしですか。」の一文を是非入れたい。

読めば読むほど引き込まれる「その道の先に消える」

その先の道に消える

その先の道に消える

  • 作者:中村文則
  • 発売日: 2018/10/05
  • メディア: 単行本

不思議な本だ。


読み始めて、「あ、コレは駄目だわ」と思った。
好意を寄せる女性が犯罪に巻き込まれて、刑事の「富樫」が証拠を改竄してまで彼女を救おうとする話。


ドラマや映画なんかでも、私はこういう展開が苦手だ。
因果応報とでも言うのか、「絶対この人痛い目合うじゃん・・・」という嫌な予感。


でも、少し読み進めて、これは違う物語だと気づいた。
次に感じたのが、少しの嫌悪感と戸惑い。


悪趣味(と、この際だから言ってしまう)な性行為。
最中の会話なんて活字で目にするもんじゃないなあ、なんて思いながら、それでも展開から目を離すことができない。


そして徐々に明らかになる事件の真相と、中心人物の思想。
右翼的な発想と、半端な神道趣味。
薄弱な思想の拠り所に対して、大それた妄想に少しばかり苦笑してしまう。


多くのページを割いて彼の思想を明らかにしたところで、この作者は何が言いたいのか、全くわからなかった。


そんな感じで読み終えた後に印象に残ったのは、嫌というほど浴びせられたSM趣味の数々だった。
私はエロ小説を読んでいたのか・・・?


短いあとがきには、「そういう小説を・・・ずっと書いてみたかった」「この小説もまた、僕にとって特別なものになりました」「全ての人生が尊い」こんな言葉が並んでいた。


本当にこの小説のあとがきなのか?と目を疑った。
中村文則はSM小説をずっと書いてみたかったのか?


何度か読み返して、この小説がただのSM小説ではないことが朧げながらわかってきた。
それでも、全て理解できてはいない。
富樫と同じく、「半分わかった」ような状態だろうか。


この小説で中村文則は、「人生はそれでも続いていく」というようなことを大切にしているようだ。
一連の事件は凄惨そのもので、これに関わっている人物みな、不幸な体験をしている。
それでも、彼らは生きている。


この小説で一番好きな場面が、事件の手掛かりとなる「もの」を地面から掘り出すシーンなのだが、事件を追う刑事の葉山と謎の女性「山本」の掛け合いが面白い。

「……お前、掘れ」
「嫌ですよ。自分でやってください」
「……スーツが汚れるだろ。時計も。高いんだ」
「信じられない。怖いです。自分で……」
「土に細菌でもいたらどうする?嫌だろ」
「は? それは私も同じなんですけど」


お互いの暗い過去を明かしあった翌日の会話。
小説全体を通して、明るいシーンや笑える会話は皆無といっていいが、唯一心が少し軽くなった場面である。


事件が核心に近付くにつれて、彼らも危機に瀕している。
それでも生きようとしている。


過去への態度はみな様々だ。
過去を無かったことにする者もいれば、捨てきれない者もいる。


過去や自分の過ち、業というべきものに囚われて、前に進むことのできなくなった人間が「Y」であり、他の「生きている」キャラクターと対をなす存在なのだろう。
「バグ」という言葉がそれを示唆しているのかもしれない。


今のところは、ここまで。
もう少し中村文学に触れて、彼の文脈を辿ってみたい。